県指定文化財等

更新日:2023年03月30日

県指定天然記念物

喜如嘉板敷海岸の板千瀬

緑色になった板千瀬が海岸沿いに長々と続いている写真

喜如嘉区の南海岸の波内ち際にあり、炭酸カルシウムのセメント作用により、砂・礫・岩石等が団結された海兵性の岩石。板千瀬はビーチロックともいい、一般に熱帯から亜熱帯地域の海岸に見られ、海岸にやや傾斜し波状に発達する。県内に大小数多くあるが大規模なものは本地域以外に国頭村謝敷、大宜味村津波などがある。

指定年月日 昭和49年2月22日

大宜味御嶽のビロウ群落

葉先が掌状に広がっているビロウの木が敷地いっぱいに立っている様子を下方向から撮った写真

大宜味小学校の北側を流れる川に沿って位置し、本島の海岸斜面に成林するビロウ群落の代表的なもの。県下でもビロウ群落は、海岸斜面の潮風の影響の強い立地に成林し、伊江島、南大東島・与那国島などによく発達している。沖縄本島ではあまり発達が見られず、本群落が最大である。

指定年月日 昭和49年2月22日

村指定文化財

大宜味村の猪垣(ヤマシシガキ)第1号 村指定文化財

山中に人の高さほどに造られたヤマシシガキが奥まで続いている様子と、ヤマシシガキを近くから観察している5人の人たちの写真

種別

史跡

指定名称

大宜味村の猪垣(オオギミソンノヤマシシガキ)

所在地

大宜味村全域を囲むように喜如嘉~津波まで 全長約31キロメートル

村指定区域

字押川六田原(前ホテルシャーベイ跡地付近)~根路銘棚原山林間(上原ハキンジョウ)

村指定距離

約1.3キロメートル(詳細地図)

猪垣の説明

私達大宜味村の先祖は、杣山(現在村有地)と農耕地(畑)との境界に猪垣を築き、畑地へのヤマシシの侵入を防ぎ、畑を守ってきた。殊に猪垣に隣接する土地の所有者は代々自分の畑を守るためにも、大宜味村全域の畑を守るためにも、自分の土地に接する猪垣を責任を持ってその保全に努め、崩れたら直ぐに補修をして猪垣を維持してきた。

1776年から1782年にかけて、塩屋、屋古前田、田湊・渡野喜屋・根路銘等の住民が各むらの役人の指揮のもとに、猪垣の大々的な補修工事が行われ、高さ七尺(約2.3メートル)より四尺(約1.3メートル)の石垣を完成したところであり農閑期や月夜に石を集めてつんだとも記録されている(『球陽』尚穆王〔ショウボウオウ〕より)。そのため、1605年に野国総監が沖縄に芋苗を持ってきて、作物として定着した頃、初めて猪垣が構築されたと思われる。

その後も代々の私たちの先祖は、生きるために猪垣を維持し、戦後も村民を最大動員して大宜味村全域を囲い込む猪垣の補修を行ってきた。戦後60年、今も村有地と個人有地の境界に、その猪垣が残っている。

私達の先祖は何世代にもわたって、個人としても、むら全体としても猪垣の保全に万全を期してきた。大宜味間切としては内法を定め、むら役人は猪垣を巡回し、猪垣が壊れた箇所があればそこの猪垣管理者に修繕を命じ、次に巡回したときになお修繕がなされていない者には科料米ニ升の拠出を命じたものであった。

畑へのヤマシシの侵入は、主食であるイモやすべての作物を失うことにもなり、農民の生存にかかわることだけに、猪垣をもってヤマシシの侵入を防ぐことは農民の生きるための戦いでもあった。
猪垣には私達村民の先祖の歴史が刻まれている。大宜味村全域を囲い込む猪垣は「十里の長城」とも呼ばれ、構築から改修・保全と大宜味村に住んでいた人々の長い歴史の証しである。私達村民の先祖の歴史を語ってくれる貴重な文化遺産である。