国指定文化財等

更新日:2023年03月30日

国指定重要文化財(建造物)

大宜味村役場旧庁舎

白を基調としたコンクリート造の建物で、格子状の窓がたくさんついている大宜味村役場旧庁舎の写真

公共建築物としては、県内初の本格的な鉄筋コンクリート造の建築物で、大正14年に竣工。

大正期にメートル法を用いた画期的設計で意匠的に沖縄の気候・風土を十分に考慮に入れ、特に台風による風圧を軽減するため、八角の平面形状を取り入れるなどすぐれた特徴を有している。

大正時代のコンクリート建築物として県内に存在する唯一のもので、鉄筋コンクリート造技術の導入や、構造法の歴史を知るうえで貴重とされている。

指定年月日 平成29年2月23日
設計者 清村勉(熊本出身者)

国指定重要無形民俗文化財(第三四九号)

塩屋湾のウンガミ

同じ白いハチマキと白い服を着た20名ほどの男性が小さな船に乗り、白・赤・緑の模様が付いた櫂で水をかき舟をこいでいる様子の写真

毎年旧盆の明けの初亥の日に行われる豊年祈願行事。海神祭は古い時代に北部の村々で起こり、時代が進むにつれその様相は変わりつつあるが、塩屋湾では比較的昔のままの姿を残して盛大に行われている。
(保護団体:田港区、屋古区、塩屋区、白浜区)
(指定年月日 平成9年12月15日)

ウンガミの特徴と課題 (第三四九号指定重要無形民俗文化財)

特徴

子供たちや船に乗っていた男性らが海の浅瀬に入っている様子の写真
  1. 毎年、旧盆明け初め亥の日に欠かさず行われてきた。
  2. 祭りは順序正しく古く形式をとどめて行われる。
  3. 各門中出身の神人を中心として行われ血族意識が強い。
  4. 祭りを誇りとし、団結心が強い。
  5. 祖先が残した祭礼に敬虔な気持ちで村中が参加し、今後とも継承し盛り上げようとする気風が盛んである。

課題

  1. 確かな記録がなくウムイ(祈願)や儀式の形式が簡素、省略化されつつある。
  2. 神人の後継者が少ない。
  3. 文化遺産として人々の生活にどう結びつけるか。

ウンガミ(海神祭)の解説

「宵もあかつきも なれしおもかげの立たぬ日やないさめ塩屋のけむり」与那原 親方良矩。これはハーミンゾー(塩屋のムラの中にある森のことで、昔はティンチジとよんでいた)にある歌碑に刻まれた組踊「花売りの縁」の出羽の琉歌である。
この歌の詠まれた美しい自然の中で、祖先たちは長い年月の間に、ある時は自然の美しさを称え、ある時は風雨とたたかいながら生活の基盤を築き上げてきた。そこに美しい人情が培われ、素朴な風俗習慣、民話、伝説、行事等の民族文化が伝えられてきた。その中で最も古くかつ盛大に伝承されてきたのがウンガミである。

ウンガミは古い時代に沖縄本島北部の村々で起こり、継承されてきたが、時代が進むにつれてその様相が変わり、陰が薄らぎつつある。しかし塩屋では比較的昔そのままの姿を留めて盛大に行われている。それは、海と山に囲まれて、そこから生活の糧を得ていたことから海の幸山の幸を祈願する各種の行事が生まれ、村人たちのウンガミに対する信仰と団結心が今日までウンガミを育て、伝えられてきたのではないかと考えられる。四カ字(《シカ字》または《シカ》=田港、屋古、塩屋、白浜であったが、現在では大保、押川江州も含めて《シカ》と呼んでいる。)が参加して行う。

時・所・年代

毎年旧盆明けの初亥の日に行われるが、どうして亥の日になったのかは明らかではない。行事の一連の内容から豊作・豊漁(豊猟)祭りであることが伺える。

田港、屋古、塩屋(シナバ、ナガリ)

年代

塩屋のウンガミはいつ頃起こったのかは、はっきりしないが、塩屋の旧家の家系が十八代といわれるのでそれから推測して四~五百年前、ムラの立ち始め頃だと想定される。

ウグワンマールとウルイマール

神様へお供え物をし、手を合わせて拝む女性3人が写された白黒写真

ウグワンマールとウルイマール(ワラビミキマール、ハーブイマール、チヌマキマールとも呼んでいる)が隔年毎に行われる。ウグワンマール(御願年)はヌル(ノロ)を始めハミンチュ(神人)たちの祈願や供え物が多くなる。ウルイマール(踊り年)は神事が簡略化され翌日塩屋では踊りが、また田港、屋古ではムラ中挙げてサーサーが行われる。

ウンケー(御迎え)

ウンガミの前夜、ハミンチュはそれぞれの元屋に集まり、神屋(お宮とも言っている)のあるところでは神屋で、ないところはその家のパシグチ(戸走口)で神をお迎えする。ヌルはサンナム(ヌルの世話役)とシマンホー(島方)とメービーをしたがえて、ヌン殿内でお迎えする。明日のウンガミを告げ、スニンマンニン(諸人万人)に拝まれるようにと案内する。

ウンケーの祈願

「アチャヌ ウェンガナシヤ ウガマリミソーリ スシンカウマンチュニ アシバグラーク ウガマリミソーリ クラマーリウガマリミソーリ スシンカウマンチュヌ クェーフーアラシマンチュニウガマリテラチ ナミンシジカニ ファーリン ヌイシグラーク ウタシキミソーリ クラウンガミサビラバ アキマドシ アキテヌウマドシ ヤ ユクンタークウガマリミソーリ」
「あしたのウンガミの神様、きれいなお姿を見せてください。食物も豊にしてください。イルカやクジラも寄せてください。爬竜船も無事でありますようにお助けください。」

田港(タンナ)アサギ

自然に囲まれた中にある、茅葺屋根で壁がない吹き抜け構造の小屋にたくさんの人が集まっている様子を写した白黒写真

ヌルは田港のウフェー屋(ムラの総支配をするお越しの神)を拝み、次にヌン殿内でサンナムとマンホーが小太鼓をポンポン叩きながら先導してアサギに向かう。
その頃。ハミンチュたちは各々のメービー(世話役)に付き添われてアサギに集まる。大方揃った頃にアサギの東側を流れるタンナ川に行き、水撫リー(ミジナリー)といって川を拝み、終わりに三回ずつ額に水を撫でる。それに参加しなかったハミンチュたちは別の容器に汲んできた水を回して三回ずつ中指で額に水を撫でる。
(禊=みそぎの名残といわれる)。それが済むとウンケー酌が始まる。ヌルはアサギの後ろの山に向かい、その他若ヌル、ウフシル(大勢頭)、セーアファ、ニガミ(根神)、スリガミ等それぞれタムト(座席)が定まっている。ヌルが前のお酒を杯に注いで祭りの始まりを告げる。ご来臨のお礼を門中の人々の健康、豊作、ファーリーの乗組員の無事を祈願する。その間、他のハミンチュをはじめシマンホーも一緒に手を合わせて祈願する。それが、済むとミキ(お神酒、四カから出る)が配られ、門中の人々は各々の門中のハミンチュを拝み、ムリ餅(長方形の餅)をいただく。

ウンガミが盛大に催されていたころ、たとえば終戦直後(一九四五年の日米による沖縄戦の)は田港アサギに参加するハミンチュはメービーはシマンホーを含めて三十余人を数えたが、今では老齢で不参加があったり、亡くなったり(跡継ぎのなり手がいない)、旅に出る(県移民すること)者があったりでその数は十五人程度に減っている。

バサ衣裳(芭蕉布の神衣裳を着ているハミンチュはタ・アサギ(二アサギ)で屋古のアサギにも参加する。はじめからシルジ衣裳(白地の神衣裳)のハミンチュはツ・アサギ(一アサギ)で田港アサギだけに参加する。

そこでの行事が終わるとシマンホーの叩く小太鼓と共に又ザイ(竹の柄に板で象ったもろ刃の銛)をもった四人のシマンホーの先導で屋古アサギに向かう。

タンナアサギ(田港アサギ)でのヌルの祈願

「シチグワチウェンガナシ クリングワ アイズリサビテシカヌ クワウマガターガ ヌキシン ヌキヒラ イリテル ウイ見ウサギやビートミルクユンウタシキミソーチ ツクルムズクイマンサクヌ ウタシキミソーチ ムシケーラムシヤウシヌキミソーチ シカヌ クワウマガ クェーフーウタビミソーチ」

「七月、ウンガミの神様、ハミンチュが揃って、四カの子や孫たちから集めた供物でお祭りしますので、病害虫は払いのけて、農作物を豊かに実らせて下さい。」

屋古(ヤフ)アサギ

田港アサギから屋古アサギまでは一五〇〇メートルの行程で、シマンホーを先頭に歩いて約二十分で到着する。アサギの広場に太い柱を立て、それを中心にクムー(藁で編んだ日よけ、クモの巣に似ている広場の周辺には芭蕉の葉の屋根でめぐらされ、下は芭蕉の葉を筵代わりに敷き、いかにも素朴で神秘的である。クムーの一部に欠落の部分があるが、これは根路銘のタムトになっている。元は根路銘も一緒であったが、明治の末期に別々になったといわれる。ヌルはアサギを背にして南向き(海に向く)、若ヌル、セーファガミ、ニガミ、アシビガミ、ファーリーガミ、スリガミもそれぞれ定まったタムトに座り、シマンホーは中央の太柱を囲んで車座に座る。ヌルのウンケー酒が始まると屋古の旧家福地屋(屋古仲=ヤフ・ナーカ)と前田家(メーダ)の長男がヌルに花米とお酒を供えてウトゥイケー(杯を交わす)をする。

屋古アサギでは、アシビガミ、ファーリーガミ、スリガミ、に分けられる。アシビガミはハーブイ(ノシランを蒸して乾燥させ、竹の輪にたらして結んだ冠)をかぶり、弓を持ってヨンコイヨンコイと唱えながら支柱の太柱を回る。はじめ七周し、途中イツ衣裳(模様のついて絹の衣裳)から白衣裳に着替える。回る回数はシマンホーが小石で数える。その時簪(かんざし)をさす。 二回目は五周して終わる。
このヨンコイの神舞は世果報(ユガフ)を祈っているに違いないと思われるが、詳らかではない。ある人は「舟を漕ぐしぐさではないか」といっているが、弓をもってのしぐさは「猪を追い込んでいる」ように思われる。ここではハミ・ウスイ(神襲い)でしめくくる。

ヤフアサギ(屋古アサギ)でのヌルの祈願

「クトシ サンドシ ヤ シチグワチウェンガナシ シザラダキ シザラムイスクムイスクダキミヤマスクヤマ ウカミガナシー ウサギヤビート クリングワ クリブシヤ クリヅーク アラシミソーリ」

「今年申年(さる年)のウンガミの神様、屋古の森・御嶽、深山・谷底神様、お祈りしますので私たちハミンチュにお力添えを賜りますようおねがいします。」

神(ハミ)ウスイ

神ウスイは若ヌル、ウフシル、スリガミの三人が山のほうに向かって手の甲に額を載せて深く拝むように地面にうつぶせになって、塗る葉祈願した跡に一人一人アザハバー(ボチョウジ)とジジキ(ススキ)を束ねたもので背中を叩く。ヌルのメービーが〈ワッサレー〉と応える。それを三回繰り返す。

それが済むとヌル、若ヌル、ウフシル、ウフチガミ(田港若ヌルともいっている)は駕籠に乗り、シマンホーに先導されて陸路塩屋のシナバ(青年浜)に向かう。一方ファーリーガミはファルガンサに待機しているファーリー(爬竜船)にぬかう。ファーリーガミが乗り終わるとヌルの行列はフマチャキでいったん駕籠を止めて、ファーリーの出発を見届けて、また動き出す。

各諸行事の詳細

御願(ウグワン)バーリー

ファーリーははじめにフギバン(ファーリークワーとも言い、比較的若い者たちが二十人乗る)が屋古のフルガンサを出発し、続いてウフバーリー(比較的ベテランの者四十余人が乗る)がそれぞれ三艘ずつ出発する。おのおののファーリーにはファーリーガミが二~三人乗って、こぎ手の「エイサーエイサー」の掛け声に合わせてクバ扇を打ち振る。しぶきを上げて疾走するそのさまは龍が水をかき分けて突っ走るようにも見えて壮観である。

対岸の塩屋では各ムラの婦人たちが藁鉢巻姿で腰元まで海水につかり、ティサジ(手拭い)を打ち振り太鼓を鳴らして迎える。

ファーリーが対岸に着くと、乗組員も櫂を持って海に飛び込み、櫂と櫂を互いにたたきながら勝利を誇り、ウンガミも最高潮に達する。その頃、陸路ヌルの行列(ウマンザ)が通ると、今までにぎやかだった婦人たちやファーリーの乗組員たちも一斉に鉢巻を取り、櫂を横にして敬虔な気持ちでヌルの行列を手を合わせて拝む。沿道の人々もひざまずき手を合わせて拝む中をシマンホーが太鼓をたたきながら〈ヌール ヌ メーカラ ニシンマンニン アシズーク チマズーク ウトイミソーリ ウーサレリー〉と唱えながら通る。そのときは一瞬水をうったかのように静まり返る。

ナガリ

ヌルの行列はナガリ(ハニクバマ=兼久浜)に向かう。到着するとシマンホーの又ザイ四本を支え合わせて渚に立てる。ヌルを中心に若ヌル、ウフシル、ニガミ、スリガミそれに門中の付き人たちがニレー(西の海)に向かって祈願する。

「ニレージュウグ カラ アマチャニ シラチャニ ワシヌトイ ガ ククリモーチ ツーシジヤー クェーフーミーフー ツクルムズクイ マンサク ヌ ウタシキ ミソーリ ユイムン ハップムン ヌン ウタシキ ミソーリ」

「海のかなたから大きな鷲の鳥が五穀の種子をくわえて来て諸人を豊かにするように、豊作豊漁をお助けください。」

願が終わると、シマンホーが水際でニレーに向かって、又(マタ)ザイで海水をかきあげてイルカを捕るしぐさをする。

パーシ

ナガリの行事がすむとヌルの行列は同じ神道をシナバに戻る。そこでヒンメー酒(門中の人々が差し出す酒を飲んで休止する)の後、ヌルがタンナ・ウタキ田港御獄)へのつなぎの祈願をする。小太鼓がガジュマルの枝に吊るされ、ヌルの唱えるウムイにハミンチュたちが調子をつけて唱和する。

パーシのウムイ

「ヨハヨハ スクムイスクダキ クイシンヌル トハシグチ ヌンジカキテ スクムイスクダキ ヌンジカキテ スクムイスクダキ ハニラムトハニアサギ ヌンジカキテ シザラダキシザラムイ ハニラムトハニアサギ ヌンジカキテ ナガリマリ ウトイミソーチ クイシンヌル ウマンチュニ ウガマリテ ウマンチュヌ ウユイトラ ミルクユン フイミチラ ユアギマク シナバ マデ ウトイミソーチ アケズバニ ヌ キタリテ スリタリテ ムカシヤ アンルスタル カンルスタル」

「田港の御獄、ヌン殿内、アサギで念願をかけ、屋古のアサギ、御獄に念願をかけ、ナガリ(兼久浜)までお通りなされた。神高しいヌルは世の人々に崇められ、豊かな世をもたらしましょう。シナバ(青年浜)までおいでになって神衣裳をまとい、蝶のように袖をひらひらなびかせて、豊かな世の中を招き寄せましょう。」

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