喜如嘉(きじょか)の伝統工芸 「芭蕉布(ばしょうふ)」の歴史

更新日:2023年12月27日

喜如嘉は“大工の村”から“芭蕉布の村”へ

芭蕉布の製法は、布を織る前に綛(かせ)を精練する「煮綛(にーがしー)」と、喜如嘉のように布になってから精練するものの2種類に大別されます。
前者は主に王朝時代、士族の衣装として織られていましたが、後者は庶民の夏衣として戦前まで沖縄各地で盛んにつくられていました。

喜如嘉でも古くから生産されていたようですが、1893(明治26)年に来県した弘前藩出身の役人・笹森儀助の著書『南島探検』以前の記録は残っていません。これには大宜味間切の名産品として、木綿飛白(かすり)と並び、芭蕉布(紺地561反、白地249反)が記されています。ただ、当時はそのほとんどが自家用として使われ、村外に出荷されることは少なかったようです。

その後、1895(明治28)年に仲原ナベという女性が、それまで無地や縞が主流だった芭蕉布に初めて絣柄を採用。また1905(明治38)年には高機が導入されたほか、平良敏子の祖父・平良真祥が自分の娘に花織や絽織の講習を受けさせるなど、技術革新と生産拡大の気運が高まっていきました。

そして1907(明治40)年、大宜味村根路銘(ねろめ)で芭蕉布品評会が開かれたのを皮切りに、副業として芭蕉布の生産が奨励されるようになります。その背景には、原料の糸芭蕉は生命力が強く、耕地の少ない大宜味村に適していたことと、男性たちが村外へ出稼ぎに出て行ってしまったという事情がありました。

もともと喜如嘉には船大工が多く、やがて彼らは優秀な大工としてこぞって那覇へ進出していきました。このため、村に残された女性たちの仕事として芭蕉布が見直されたのです。

喜如嘉地域を中心に大宜味村内で織られていた芭蕉布は、都市部との接触などを通じて、いわば“独学”で発達していきました。柄は経絣がメインで、特に規格などはありませんでした。また藍染をできる人は少なく、車輪梅(しゃりんばい)を用いた赤染が盛んに行われました。

大宜味村芭蕉布織物組合の結成

昭和に入り、喜如嘉地区を中心に生産されていた芭蕉布は品質・生産量共に著しく向上し、村の品評会でも喜如嘉のものは他の地区の品とは分けて審査されるほどでした。しかし、織り上がった製品は仲買人によって安く買い叩かれ、女性たちは布代の前借り金を抱えて苦しい生活を続けていました。
この情況を打開しようとしたのが当時の喜如嘉区長・平良真次です。

平良真次は1939(昭和14)年に東京三越で開かれた特産物即売会に、喜如嘉で織られた芭蕉布300反を出品するなど、生産者に利益を還元するべく販路の拡大に尽力しました。

翌1940(昭和15)年には、彼が代表となって大宜味村芭蕉布織物組合を結成。県の補助を受け、喜如嘉、饒波(ぬうは)、謝名城(じゃなぐすく)に芭蕉布工場が設立されます。工場では八重山や県の工業指導所などから技術者や講師を招いて、新たな技法の研究・開発や新製品の試作などが行われていましたが、太平洋戦争の勃発とともに中断されてしまいました。

平良敏子の芭蕉布復興をかけた奮闘

戦時中、沖縄本島中南部ほどの徹底的な破壊は免れた喜如嘉。早くも1945(昭和20)年7月末に、共同作業の一環として芭蕉布の生産が再開されました。職工は総勢69名で、各家庭にあった機(はた)を修理して使い、織り上がった布は作業参加者の間で分配されたといいます。
しかし、この工場は台風で倒壊した後、道路建設のため閉鎖されてしまいます。

平良真次の娘・敏子は、戦争中「女子挺身隊」の一員として岡山県倉敷市で働いていましたが、戦後、倉敷紡績北方工場に就職します。ここで彼女をはじめとする喜如嘉出身者4名は、大原総一郎社長のすすめで倉敷民藝館初代館長の外村吉之介に師事。織りや染めの基本を学ぶとともに、柳宗悦の民藝運動に深い影響を受け、1946(昭和21)年暮れに帰郷しました。

喜如嘉に帰ってきた敏子は芭蕉布復興を決意し、戦争未亡人らに生産を呼びかけますが、時は軍作業全盛の頃。需要のなくなった芭蕉布は生業としては成り立たず、苦しい時代が続きます。

こうした逆境の中、1951(昭和26)年に群島政府主催の産業振興共進会で、喜如嘉地域の平良俊子が1等を受賞。また、1954(昭和29)年の島生産愛用運動週間でも平良敏子が優秀賞を受賞。さらに同年「沖展」に工芸部門が開設されると、これにも敏子は作品を出展しはじめ、「喜如嘉の芭蕉布」は優れた工芸品として高い評価を受けるようになりました。

同時に彼女は、喜如嘉地区に隣接する饒波地区から材料を大量に仕入れて喜如嘉の女性たちを織り手として雇い、作業の集中化と合理化を推進。並行して新商品の開発を積極的に行うなど、芭蕉布を「産業」として軌道に乗せる努力も怠りませんでした。
当時のヒット作には、アメリカ人向けのテーブルマットやテーブルセンター、クッション、本土向けの座布団、帯などがありました。特にテーブルマットは、芭蕉糸と同じく喜如嘉特産品の藺(いぐさ)を交互に織り込んだアイデア商品で、県内の土産品展でよく売れ、最盛期には100反近く織られた年もあったといいいます。

「喜如嘉の芭蕉布」は沖縄県が誇る伝統工芸品へ

1972(昭和47)年、沖縄県が日本に復帰すると同時に、芭蕉布は県の無形文化財に指定され、平良敏子はその保持者としての認定を受けました。またその2年後には、「喜如嘉の芭蕉布」は国の重要無形文化財に指定され、彼女を代表とする「喜如嘉の芭蕉布保存会」がその保持団体として認定を受けました。

こうして沖縄県を代表する伝統的工芸品として認知されるようになると、本土からの注文も増え、買い取り価格もようやく上がってきました。1978(昭和53)年には、個々の品質格差をなくすため規格を統一し、証紙が貼られるようになります。

技術者の高齢化と後継者不足により、この頃から生産量は徐々に減少していきますが、品質と社会的評価はますます高まり、1981(昭和56)年にはポーラ伝統文化振興財団から第1回伝統文化ポーラ大賞を授与され、記録映画「芭蕉布を織る女達」が制作されました。

1984(昭和59)年には通産省の「伝統的工芸品」指定を受けるため、喜如嘉芭蕉布事業協同組合を設立。その2年後、大宜味村立芭蕉布会館が完成し後継者育成事業もスタートしました。

糸芭蕉の活用法

糸芭蕉の用途は芭蕉布だけにとどまりません。

「うばさがら(表皮)」は以前から芭蕉紙の原料として使われていますが、最近はブーケやしおりといったペーパークラフトの素材としてもよく利用されています。
また糸にできない外皮の繊維は「しーさー苧(うー)」と呼ばれ、沖縄県内各地の獅子舞の獅子の毛として毎年大量の注文を受けています。
そのほか、苧炊きに使った後の木灰は焼き物の上薬に使われるなど、その波及効果は多方面にわたっています。

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「喜如嘉小学校獅子舞クラブ」が操る獅子舞にも糸芭蕉の繊維を使用

喜如嘉の芭蕉布のこれから

現在、喜如嘉芭蕉布事業協同組合が発表している年間生産高は約170反(※)。後継者を育てるには時間がかかるうえ、織り手の高齢化など課題も抱えています。ですが多くのみなさんのご理解とご支援を得ながら、大宜味村のみならず沖縄県が世界に誇る伝統工芸品「喜如嘉の芭蕉布」を今後も守り育んでいきたいものです。

※令和2年度織物検査事業実績参照(沖縄県商工労働部ものづくり振興課発表)

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