人間国宝 故・平良敏子

故・平良敏子 「喜如嘉の芭蕉布」に捧げた人生

世界に誇れる伝統工芸「喜如嘉の芭蕉布」の復興で人間国宝に認定

1921年、大宜味村喜如嘉に生まれた平良敏子さん。幼少時代から、芭蕉布を織る母親の背中を見て育ちました。母の手伝いをするうちに、自然と自分自身も機にのぼるように。それが平良敏子さんの織りの原点でした。

戦争中は岡山県倉敷市で、女子挺身隊の一員として就労。終戦を迎えた後には、倉敷紡績北方工場に就職。そこで大原総一郎社長の取り計らいにより、元倉敷民藝館館長の外村吉之介さんから織りや染めの基本を教わります。柳宗悦さんが提唱した民藝運動にも感銘を受け、故郷で織っていた芭蕉布の魅力を再発見して、荒廃した喜如嘉に戻ってきました。

帰郷した敏子さんは芭蕉布の再興を決意。戦争未亡人や喜如嘉地域、その周辺で暮らす人々に呼びかけながら、芭蕉布づくりに取り組みます。その甲斐あって、大宜味村の芭蕉布は徐々に世に知られていきました。

1974年、沖縄県が日本に復帰した2年後、国の重要無形文化財に総合指定された「喜如嘉の芭蕉布」。追って2000年に、復興に尽力した功績を讃えられて、平良敏子さんは人間国宝に。2022年9月にお亡くなりになるまで、その生涯を芭蕉布づくりに捧げられました。

 

芭蕉布とわたし/平良敏子

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平良敏子さんと、大宜味村ふるさと観光大使の夫婦デュオ・アイモコさん。糸芭蕉畑にて撮影

※本文は平成11年度 離島・過疎地域ふるさと活性化推進事業にて制作した小冊子『芭蕉布の里』(大宜味村発行)からの再掲です

 

「戦前まで沖縄各地で織られていた芭蕉布も、その産地は今や喜如嘉だけになってしまいました。

 

芭蕉布づくりは大変な手間と根気のいる仕事です。原料である糸芭蕉の栽培から、糸を績み色を染め一反の布に織り上げるまで、かたときも気が許せません。どこか一カ所でも手を抜くと、仕上げの段階ですべてが台無しになってしまいます。そのくらい細かな神経が要求されるのです。

 

芭蕉布は、その材料すべてが沖縄の自然にあるものからつくり出されます。機械も一切使いません。これは私の母や祖母、そのまた祖先たちが何百年も前から守り伝えてきた、大切な郷土の技術であり文化なのです。今、私たちがやめてしまったら、沖縄から芭蕉布はなくなってしまいます。それは余りにも申し訳ないという気持ちで、私たちは今日まで様々な苦労を乗り越えてきました。

 

近年になって、ようやく私たちの仕事は世界的にも認められるようになりましたが、まだまだ安心することはできません。喜如嘉でも、芭蕉布づくりにたずさわる人たちの高齢化が進んでいます。特に『苧績み(うーうみ)』とよばれる糸をつなぐ作業のできる人が減り、肝腎の材料を集めるのも大変困難になってきました。

 

芭蕉布は、喜如嘉のみならず沖縄が世界に誇る伝統工芸です。

一人でも多くの人がこの郷土の文化に目を向け、その素晴らしさを知ってほしいと思います。そして私たちの仕事を理解してほしいと願っています。

 

私たちを見守るだけでなく一緒にやろうという人が増えてくれたなら、芭蕉布は末永く後世に受け継がれていくことでしょう。

私たちはそう信じ、また願っています。」